株式会社エスポワール代表取締役 奥野克彦

KATSUHIKO OKUNO

株式会社エスポワール 代表取締役

奥野 克彦

人と​人の​つながりを​大切に、​愚直に​努力を​続ける。

MESSAGE

逆境の​たびに、​支えてくれた​人が​いました。

1988年の​創業以来、​日本と​タイ、​そして​時には​ハワイを​往復しながら​仕事を​続けてきました。​お客様、​スタッフ、​友人、​取引先のみなさまとの​出会いから、​人生に​ついて​多くを​教わりました。

これまでに​全国47都道府県、​2,108名の​フラの​先生方とお取引を​いただき、​その​約8割が​リピートでの​ご注文です。​長く​信頼してくださる​みなさまの​存在が、​エスポワールの​歩みを​支えています。

1988年
横浜市青葉区青葉台で創業
25年以上
日本とタイを往復
2,108名
全国のフラの先生方との取引
約80%
リピートでのご注文

LIFE STORY

挑戦と​再起の​歩み

  1. 29〜35歳

    会社員から​起業家へ。​成長と​慢心を​知る。

    大手企業で​プラント建設に​携わり、​アフリカ・アルジェリアに​4年間駐在。​仕事に​大きな​やりがいを​感じていましたが、​小売店経営の​話を​きっかけに​退職し、​29歳で​起業しました。

    バブル景気の​追い風と​優秀な​スタッフに​恵まれ、​外販にも​力を​入れた​結果、​33歳で​スタッフ4名ながら年商2億円を​超えました。​一方で​経費は​膨らみ、​売上に​安心して​努力を​スタッフ任せに​する​慢心も​生まれました。

    バブル崩壊後も​「何とかなる」と​考え、​仕事より​サーフィンを​優先する​時期が​続きます。​売上が​下がる​中、​銀行借り​入れに​頼るようになりました。

  2. 40〜44歳

    1億円を​超える​借金から、​仕事の​軸を​見直す。

    借り​入れは​1億円を​超え、​返済の​ために​両親からも​880万円を​借りる​状態に​なりました。​42歳で​倒産と​自己破産を​覚悟して​弁護士に​相談し、​原因は​自分の​甘い​考えに​あると​厳しく​指摘された​ことで​目が​覚めます。​銀行へ​返済計画の​変更を​お願いし、​必死に​立て​直しを​始めました。

    売上に​つながる​ことなら​何でも​試しましたが、​最後まで​残った​スタッフにも​給与を​十分に​支払えず、​退職金の​代わりに​社用車を​渡しました。​会社に​残ったのは、​克彦と​妻の​二人だけでした。

    44歳で​税理士の​園山先生と​出会い、​仕事ごとの​売上と​経費を​見直した​結果、​フラ衣料の​販売に​将来性が​あると​判明。​他の​仕事を​すべて​やめ、​フラの​仕事に​専念する​大きな​決断を​しました。​当初は​ハワイで​仕入れから​通関、​発送まで​自ら​行いましたが、​調達コストが​高く​利益を​出せない​状況が​続きました。

  3. 45〜50歳

    残り100万円を​手に、​タイで​再出発。

    手元​資金が​100万円に​なった​45歳の​とき、​何の​つても​ないまま​タイへ​渡りました。​現地での​出会いと​フラブームに​支えられ、​知人の​家を​間借りして​活動拠点を​つくります。​バンコクで​仕入れた​Tシャツに​ハワイ風の​デザインを​施し、​日本で​販売を​始めました。

    自ら​撮影した​商品写真を​Wordに​貼り、​深夜まで​手作りの​カタログを​印刷して、​30名の​フラの​先生方へ郵送。​初めて​FAXで​注文が​届いた​瞬間、​思わず​「バンザイ」と​叫んだ​喜びは​今も​忘れられません。​注文は​少し​ずつ​増え、​タイでの​生産に​よって​利益が​生まれ始めました。

    46歳で​2階建ての​タウンハウスを​購入し、​事務所、​住居、​縫製工場を​一体化。​翌年には​3階建ての​物件も​追加し、​作業スペースを​広げました。​売上は​3年間で​4倍に​なり、​48歳で​1億円以上の​借金を​完済。​50歳で​再び年商2億円を​超えました。

  4. 53〜55歳

    震災と​洪水。​お客様の​言葉に​支えられる。

    53歳の​ときに​東日本大震災が​発生。​人生観を​揺さぶられ、​会社の​利益を​寄付しました。​その​一方で​売上は​減少し、​翌年には​タイの​大洪水に​襲われます。

    工場の​水位は​最後には​約150センチまで​上がり、​ミシンも​大半の​在庫生地も​失いました。​震災に​続く​被災に​すべてを​投げ出したくなりましたが、​フラの​先生方から​多くの​励ましを​いただきました。​学生時代の​友人たちも​協力し、​残った​生地で​作った​Tシャツを​1枚5,000円で​数多く​販売してくれました。

    年が​明けても​タイへ​向かう​気力を​持てずに​いた​とき、​親友の​「一緒に​行こうか」と​いう​一言で​再び前を​向く​ことができました。

  5. 58歳

    工場火災を​越え、​もう​一度​もの​づくりへ。

    20年に​わたり仕事を​ともに​した​スクリーン工場の​責任者が​借金を​残して​突然いなくなり、​債権者に​よる​染料の​散布や​放火に​よって、​大切な​スクリーン設備を​失いました。​震災、​洪水、​火災と​続く​困難の​中でも、​お客様と​友人から​届いた​励ましが​再起への​力に​なりました。

    仕事に​集中して​売上を​回復させ、​洪水の​心配が​少ない​土地に、​より​広い4階建ての​物件を​購入。​バンコクの​縫製工場を​再び充実させました。

  6. 59〜60歳

    タイで​培った​経験を、​新しい​事業へ。

    タイで​長く​仕事を​してきた​経験から、​大手小​売企業より​買い付け代行の​依頼を​受けました。​航空​貨物ではなく​20フィートコンテナで、​1,000個から​1万個単位の​商品を​扱う、​これまでとは​規模の​異なる​仕事です。​その​後、​さらに​3社から​同様の​依頼を​いただきました。

    60歳で、​チャトチャック市場に​隣接する​ショッピングモール​「MIXT CHATUCHAK」に、​タイ初と​なる​ハワイアンショップを​開店。​タイの​方々や​観光客、​在タイの​フラダンサーに​来店いただき、​3カ月を​過ぎる​ころには​利益も​出るようになりました。

  7. 61〜62歳

    コロナ禍で​立ち止まり、​挑戦の​意味を​学ぶ。

    新型コロナウイルス感染症の​影響で​バンコクの​店舗を​閉じ、​イベント中止に​より​フラ衣装の​仕事も​激減しました。​2年前から​総勢70名の​チームJAPANで​準備していた​メリーモナーク前夜​祭への​出演も​中止と​なりました。

    状況を​変えようと​鎌倉・​小町通りで​ハワイアンカフェを​開き、​ハワイの​アーティスト作品を​モチーフに​した​Tシャツや​パーカーも​制作しました。​しかし、​カフェは​2カ月で​閉店し、​商品は​多くの​在庫を​抱える​ことに。​友人の​「こんな​時期は、​何もしないでじっと​しているのが​一番よい」と​いう​言葉が​身に​染みました。

  8. 64歳〜現在

    支えてくれた​人の​幸せに、​仕事で​貢献する。

    数々の​困難から​立ち​上がれたのは、​お客様、​スタッフ、​友人たちの​励ましが​あったからだと​改めて​振り返り、​今できる​ことに​全力で​取り組むと​決意しました。

    65歳で​「Luluoli」ブランドを​立ち上げ、​日本全国の​ハワイ催事を​巡る​多忙な​日々を​過ごしました。​韓国の​フラ講師・チェチェ先生との​出会いから、​韓国で​「日韓フラ」の​イベントも​開始。​66歳に​なると​百貨店から​イベント企画の​依頼を​いただくようになり、​日韓フラの​規模も​徐々に​広がりました。

    現在は、​自分の​ためだけではなく、​周囲の​人々の​幸せに​貢献できる​人でありたいと​願い、​日々​努力を​続けています。​2027年には、​チームJAPANと​して​メリーモナーク前夜​祭へ​出演する​ことが​決定しています。

PEOPLE

文化と​価値を、​互いに​尊重する。

便利さや​速さだけを​追うのではなく、​人との​つながり、​異なる​文化や​価値、​自然との​調和を​大切に​したい。​それが、​これからの​もの​づくりに​必要だと​考えています。

日本と​タイ、​それぞれの​良さを​生かしながら、​関わる​人が​誇りを​持てる​仕事を​続けて​いきます。

バンコクのスタッフとエスポワールのメンバー

CRAFT

残せる​ものを、​一つずつ。

一度きりの​人生で、​何を​残せるのか。​私に​できるのは、​目の前の​仕事に​誠実に​向き合い、​長く​愛される​ものを​つくり続ける​ことです。

これからも、​愚直に​努力し、​お客様と​スタッフとともに​歩んで​まいります。

バンコクの縫製工場で衣装を製作するスタッフ
「もっと人と人のつながりを大切にすること。色々な文化や価値を共有し、尊重すること。」
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